スペインに惚れました

10年暮らした愛しのスペイン私の独断と偏見に満ちた西方見聞録

人間だもの

スペインで暮らしていたある日のこと。

スーパーで買った卵を冷蔵庫へ入れようとパックを開けてみると、12個入りのはずなのに11個しか入っていなかった。

開けた瞬間止まる時間。

人間は驚くと一瞬思考回路が停止する。

はっと我に返り私の頭に最初に浮かんだのは「私が甘かった」という後悔にも似た感情だ。

この段階で既にスペインに毒されている。

この状況の場合、卵が一つないのはスーパーや工場のせいではなく客の誰かが抜き取った可能性が100%である。

再生紙を利用したパックだったため、取ろうと本気で思えば脇から一つぐらい抜き取れる。

日本では誰も本気で一つ抜き取ろうとする人はいないだろうが、日本の常識は通用しない。

日本では起こらないだろう出来事に遭遇するたび、「ここは外国。何が起こっても不思議はない。何があっても自己責任」と自分に言い聞かせて生活してきた。

もちろん今回の件に関しては私に非がないのでスーパーに戻って卵は交換してもらえたが、無駄にスーパーを往復する羽目になったのは、買う前にパックに隙間がないか、しっかり入っているかどうかきちんと確かめなかった自分のせいとも思える。

やっぱり「私が甘かった」のである。

 

世の中を信じてボーっと買い物なんてしてはいけない。

「人間の本性は基本的に善であるとする」性善説で成り立っている日本とは違うのだ。

スペインに居るのならば、箱に入っているアイスも抜き取られていないか前後左右確かめるべきだし、6個パックのヨーグルトが4個しかない場合は疑問を持つべきなのだ。

そしてレシートは毎回きちんと買った物と合っているか、割引品がきちんと割引されているか確かめたほうがいい。

レジの打ち間違いは故意ではないが間違いが多いのも事実である。

 

ところが、レジの打ち間違いに対してスペイン人の反応は意外に優しい。

「間違いはあるよね。人間だもの」と、

相田みつをクラスの寛容さで受け止める。

まるで悟りを開いたかのような微笑みで

「人間だもの」と言ってのけるその姿はマザーテレサのようだ。

しかし「人に甘い」分、己にもめちゃくちゃ甘い。

ミスした人を責めないのはいいが、自分がミスした場合も自分を責めない。

「人間だもの」のせりふはミスした当事者が開き直って使うと、それはただただふてぶてしく殺意すら覚える。

 

いけない、いけない。

殺意だなんて、寛容さのかけらもない。

ここは深呼吸して禅のごとき心を穏やかに保たなければ。

神に「寛容さ」を試されているのだ。

例え銀行に行って窓口が一つしか開いてなくて長蛇の列ができているのに銀行員がべらべらと話していようが、スタバの店員に毎回間違った名前をカップに書かれようが、「人間だもの」と受け入れるのだ。

 

役所の人が変わる度に言っていることが変わっても、銀行のカードの名前のスペルを3度も間違えられても「人間だもの」「人間だもの」「人間、、、、」

ダメだ。堪忍袋の緒が切れる。

 

結局私は相田みつをにもマザーテレサにもなれなかった。