スペインに惚れました

10年暮らした愛しのスペイン私の独断と偏見に満ちた西方見聞録

散歩と尾行

私の人生で歩くという行為は行きたい所へ向かうための手段であって目的になることはなかったのだが、スペインに行きその感覚はずいぶん変わった。

日本にいた時はとにかく目的地に最短距離で行けるルートを検索し、必要とあらばタクシーまで駆使して極力歩かなくて済む選択をしていたが、スペインでは不思議なほど無駄に歩くことができた。湿気のない気候と抜けるような青空、急いで歩いている人がいない道。お店やバルなどが建物の一階にあるので歩いて眺めているだけでも楽しくなる。スペイン人が散歩好きなのも納得である。

 

マドリードは首都と言えども意外にコンパクトな街なので、散歩や買い物をしていると知り合いに出くわすなんてことも良く起こるのだが、知り合いではなくてもよく見かける人というのが存在する。

私たちが「パトリック」と名付けたその男はいつも指なしの革の手袋をはめ、ベースボールシャツに身を包んでいた。なぜパトリックと名付けたかと言うと、俳優のロバート・パトリック(ダイ・ハード2のテロリスト役)に似ていたからだ。

初めて見かけた時は変わった人だなと思っただけだったが、その日を境にパトリックとの遭遇率がグッと上がっていった。私たちとパトリックの行動範囲がどうやらかなりかぶっているようだ。本当の知り合いと遭遇する確率よりパトリックと遭遇する確率の方が断然高い。

 

パトリックはいつ見ても同じスタイルで、そして必ず一人で歩いていた。人と話している所は一度も見かけたことがない。口を一文字に閉じ無表情。背が高くやたらと姿勢がいいので遠く離れた場所からもパトリックを発見するのは容易だった。

季節が変わり寒くなってもパトリックは頑なにベースボールシャツを着ていたが、本格的な冬が到来したらあっさりとコートを着込み始めた。しかし、革手袋の指先は相変わらず出たままだ。

 

寒い冬の夕方、彼氏とぶらぶら散歩をしている時にまたパトリックを発見した。いつ見ても興味深い男だ。一体彼は何者なのだろうか?常に身に付けている革の手袋も気になる。無表情で強面の顔から想像すると殺し屋か?スパイか?いや、それにしては目立ちすぎる。

するとパトリックの後をつけてみよう!と彼から提案があった。人の後をつける行為はもはや散歩ではなくただの尾行だ。常識的に考えてこの行為は間違っているが、特に用事もないのであっさりと彼の変態行為に私も便乗した。

夕方のマドリードの繁華街は人で溢れているため尾行するにはもってこいだ。しかもパトリックは背が高いので多少の距離があっても見失うことはない。簡単だ。しかもパトリックのコースは私たちの普段の散歩コースとなんら変わらない。そーなると尾行している罪悪感が一気に薄くなる。

 

しかし、歩けども歩けどもパトリックはどこへも入らず、誰とも話さず、ただただ街をさまよっていただけだった。なんともつまらない尾行である。そうこうしている間にどっぷり日も暮れて、お腹も空いてきたのでその日の任務は完了することにした。まるで収穫のない尾行だった。私たちはどうも探偵には向いていないようだ。なんせ二人とも忍耐力がないし、飽きっぽい。したがってパトリックの謎な生態を解明する!という当初の情熱はあっさり跡形もなく消えさり、頭の中は夕飯何を食べよう???で一杯になっていた。

 

その後も何度も街でパトリックを見かけたが、結局一度も話すこともなく私はマドリードを出てしまった。

尾行をしたせいで何故か親近感が沸く。

今でもパトリックはマドリードの街を散歩しているのだろうか?