スペインに惚れました

10年暮らした愛しのスペイン私の独断と偏見に満ちた西方見聞録

課外授業

スペインで語学学校に通っていたある日。

「今日は課外授業!」と言って先生が配ったプリントには、「市場の名前」や「市場の名前の由来」」「今日ジャガイモが一番安い店の名前」など書く項目があり、実際に市場へ行って現地の人に質問して答えを埋めるという実践型の課外授業だった。

質問の最後には

「終わったら市場内にある○○というバルへ来ること」

「なお、一番最初に来たチームにはご褒美として先生がコーヒーを奢ります」

と書いてあり、みんなの士気も高まる。

私はクラスメイトのアメリカ人のジャンとペアを組んだ。

 

スイス、アメリカ、日本、台湾など様々な国籍の生徒がいたこのクラスは、みんなの仲がとても良く飲みに行ったり和気あいあいだった。

 

「市場の名前」は簡単だった。なぜなら人に聞かなくても書いてあったからだ。

しかし「市場の名前の由来」はどこにも書いていない。これはさっそく誰かに聞かなければならない。

ジャンと二人で意を決して市場の人に尋ねてみたのだが、もごもごと早口で何を言っているのかまるでわからない。

「もう一度、ゆっくり言ってもらえますか?」と言うと「そーれーはーねー、、、」と初めの単語だけがやたらゆっくりになっただけの、結局は早口に戻ってしまうスペイン語が返ってくる。

まったく理解できなくて顔が引きつっている私を差し置き、隣のジャンは「ほうほう」などと相槌を打っている。

私はまるで聞き取れていないが、ジャンがわかったのならそれでいい。

相方に恵まれたことを神に感謝し、私もジャンの真似をして「ほうほう」と適当に相槌を打ち、早くこの課題を終わらせてコーヒーを飲みたいなぁとそんなことばかり考えていた。

理解しようと集中している時とは違い、理解をあきらめた時に聞こえる言葉はただのBGMと化す。

 

「ありがとうございました」とジャンが言うのを合図に我に返り、私も頭を下げその場を後にする。

 

私 「で、由来は一体なんだって?」

ジャン 「えっ?聞いてなかったの?」

私 「全然聞き取れなかったよ。でもジャンがわかっているみたいだったからよかった~」

ジャン 「えー!僕も全然聞き取れてないよ!」

私 「いやいやいや、相槌打ってたじゃんか!」

ジャン 「そっちも相槌うってたじゃん!」

と、お互いに責任をなすりつける泥仕合

 

そこで「現地の人に話を聞く」というこの日の授業の一番大切な所を無視し、私とジャンは他のチームの回答を盗み見るという作戦に変更し優勝を狙ったが、答えを教えてくれる親切なチームは存在しなかった。

 

この授業の後、私たちは「すっかりスペイン語が話せるようになっていたと勘違いしていたが、実はまだまだ全然ダメなんだ」という事実に愕然とした。

他のチームも現地の人の話すスペイン語の聞き取りが大変だったらしく、みんな苦戦していたようだ。

 

思い返してみると、私が話す人と言えばスペイン語が母国語ではない自分と同じレベルのスペイン語を話す外国人たちや、外国人に慣れているがゆえわかりやすく話してくれる先生。そして家の同居人でさえも外国人に部屋を貸している外国人慣れした人なのだ。

こんな狭い生活範囲の中で暮らしている私が、外国人にもお構いなしに早口で話してくる現地の人の言葉が理解できるはずがない。

 

「外国語を習得する早道は現地の恋人を作ることだ」とよく聞くが、これは真実とは限らない。

確かに会話の機会が増えるので付き合い始めは猛烈に上達した気がする。しかし暫く経つとお互いがテレパシーのように理解し合い、一言くらいで何が言いたいのかわかってしまう。そうなると文法の間違いなど気にならなくなって上達はぴたっと止まってしまうのだ。どこの国でも現地の人と結婚したのに現地の言葉が上達しない人がいるのはこのせいだと思われる。

いい意味でも悪い意味でも「愛は言語を超える」のである。

したがって「現地の恋人」で鍛えられるのは語学力ではなく「テレパシー」力なのだ。

 

しかし初対面の人や慣れていない人にはテレパシーが通じない。

結局現地の人の言葉を理解するにはとにかく話して慣れるしかないということだ。

語学に近道なし。精進あるのみなのである。