駄菓子
駄菓子屋というものは日本だけのものかと思っていたが、スペインにも似たようなものが存在する。何を持って日本だけの風景だと思い込んでいたのかはわからないが、スペインでも子供が小銭を握りしめて駄菓子を買うという事を知った時はなんだか妙に親近感が沸いた。
スペインでは駄菓子屋のことを「チュチェリア」と呼ぶ。何とも可愛い言葉の響き。
量り売りされているのは色とりどりのゴロシーナと呼ばれるグミみたいな甘くて弾力のあるお菓子。ちょっと酸っぱいやつとか、なぜか目玉焼きの形をしたやつとか、砂糖をまぶして平べったいひも状になったやつとか、なかなか表現に困る代物ばかりだ。 だいたい子供が喜ぶ食べ物というものは合成着色料がっつりで砂糖どっぷりのいかにも体に悪そうな代物だという事は世界各国変わらない。
チュチェリアには甘いグミ系の商品の他にもガムや飴、ドライフルーツやナッツ類、そしてスナック菓子など子供が喜ぶお菓子がたくさん売られている。いや、喜ぶのはなにも子供だけではない。マドリードで働いている頃、同僚とランチを食べる店の近くにチュチェリアがあったのでよく帰りに立ち寄って駄菓子を買ったが、大の大人であろうとも小銭を握りしめて何をどれだけ買うかと真剣に頭を悩ませる姿は子供の頃と何ら変わらないのだ。
私の生まれ育った場所は東京の東側で、小学低学年の頃までは「紙芝居屋さん」なるものがまだ健在していた。
私の年代で「紙芝居屋さん」を体験している人はとても少ない。「紙芝居屋さん」とは自転車に紙芝居と駄菓子を積んだおじいちゃんがやってきて子供を集め、水あめやソースせんべいなどを買ってくれた子供たちに紙芝居を聞かせてくれるという代物だ。
正直言っておじいちゃんの読む紙芝居は月光仮面など当時の私ですら「古すぎ~!」と突っ込みたくなるような一昔前の物語ばかりだったので話自体はあまり面白くなかったのだが、声色を変え臨場感たっぷりに話を読んでくれるおじいちゃんの演技は子供ながらに興奮したのを覚えている。
30円や50円そこらで味わえるおじいちゃんの熱演。私にとって人間国宝だ。
そう言えば昔はこの手の移動販売がたくさんあった。
お豆腐屋さんや、日石灯油、チャルメラのラーメン、石焼き芋。どれも独特な音楽や掛け声でお客を呼び寄せる。
日石灯油の「日石灯油でほっかほか~日石灯油だもんね!」は今でも歌えるし(それにしても「だもんね!」って凄い歌詞だなぁ。私の記憶違いかと思ったがYOUTUBEで探したら「だもんね!」とちゃんと言っていた)
ホットドック屋の「ホット~ドック~、ホット~ドック~」の曲も頭から離れない。今買わなければ次にいつ会えるかわからないという神出鬼没さが移動販売の魅力だ。
スペインではあまりこの手の移動販売には遭遇しなかった。
屋台とか出店のような形態は結構あるが、本当に移動しながらというスタイルは、ぴーひゃらぴーひゃらと自転車で来る刃物の研屋さん(包丁やハサミを研いでくれる)と、マドリードのバジェカスという地域に出没していたメロンの移動販売ぐらいしか記憶にない。軽トラでメロンを販売しに来るおじさんが「安いぞ!安いぞ!最高のメロンがこの値段!買わなきゃ損だぞ!」とやたらとドスの効いたダミ声で叫んでいた風景はバジェカスと言うガラの悪い地域の印象と見事にマッチしていて妙に微笑ましい。(バジェカスはマドリード市内の中でもガラが悪い地域として有名だが、4、5年住んでいた私にとっては住みやすい思い出の土地だ)
私の遠い記憶の「紙芝居屋さん」を思い出すからなのかわからないが、例えドスの効いたダミ声であっても移動販売に出会うと何故だかウキウキしてしまう私であった。
バカシオネス
8月のマドリードは閑散としている。なぜなら皆マドリードを脱出して夏の休暇へと旅立ってしまうからだ。
スペインの会社では大抵7月または8月に約一ヶ月の休暇が与えられる。海などの夏に人気の観光地以外のバルや商店などでは二週間から一ヶ月の休暇を取りシャッターを閉めてお店を開けないなんて所も結構ある。
スペイン人にとってバカシオネス(夏の休暇)はとても大切なものでバカシオネスのために一年働いているといっても過言ではない。
春のセマナサンタ(イースター)が終わったら心は夏のバカシオネスに向けて一直線となり、夏の到来と共に職場にはソワソワ感が漂い今年はどこそこへ行くという話ばかりが話題を占める。そしてバカシオネス後の一か月はバカシオネスの思い出話が続く。
一年の中でバカシオネスが心を占めている割合が高すぎる。
私の同僚たちの一年の月別思考回路は毎年こんな感じだった。
1月 クリスマスで食べまくり太ってしまった。ダイエットをしよう!
2月 ダイエット始めます。セマナサンタどーしようかな?
3月 やっと冬時間が終わるー!イエーイ
4月 日が長くなったのでテラスでの一杯が最高!バカシオネスどーしよう!
5月 日焼け!テラス!日焼け!バカシオネスのプラン立てます!
6月 日焼け!テラス!バカシオネスの準備!
7月 日焼け!プール!バカシオネスへのカウントダウン!
8月 はい来た!バカシオネスー!!! イエーイ!
9月 日焼けを眺めてバカシオネスの思い出に浸る
10月 クリスマスの宝くじに当たったら何買う?
11月 クリスマスの宝くじあっちの店でも買っておこう。クリスマスのプレゼント何にしよう?
12月 クリスマス!クリスマス!クリスマス!
本当に毎年こんな感じ。夏休みを指折り数えて心待ちにする姿はまるで小学生のようだ。
しかしこのルーティン、乗っかってみると案外楽しい。
バカシオネスとクリスマスが一年を支える柱となってメリハリをつけてくれるので7月になって「えっ!もう半年以上経ったの?ついこの間年が明けたのに?」なんてことにはならない。(こんな人間は私だけかしら?)
スペイン人の代表的なバカシオネスの過ごし方は海辺の家(別荘や貸家やアパートホテル)でのんびりすること。日焼けをしながら本を読み、暑くなったら海に入り、お腹がすいたら家に帰る。そして日が落ちたら散歩をし、一杯ひっかける。これの繰り返しだ。
あとは海外旅行も定番中の定番。長い休みを利用してちょっと遠い国まで足を伸ばす人も多いし、若い子はプチ留学をする人もいる。皆思い思いにそれぞれのバカシオネスを目一杯満喫するのだ。
なんだか楽しいことだらけのバカシオネスだが、バカシオネスに伴う弊害も起きる。
まず、バカシオネスの期間中はありとあらゆる場所で仕事が停滞する。電話で問い合わせても「担当者が夏休みなのでわかりません」とあっさり言われてしまうのだ。しまいには「担当者が戻ってくる一か月後にまた連絡ください」などと電話を切られる。
一か月は長い。お役所関係も業務はストップし、申請は宙ぶらりんにされたりする。
日本人からすると驚きの連続だが、現地の人は毎年のことなので誰もなんとも思っていない。
「不便だけどしょうがないよね、だってバカシオネスだもん」と肩をすくめて終わりだ。
こういう事にかけてスペイン人はとても心が広い。一か月の休みが人を寛大にさせるのだろうか?
日本に帰ってきてからというもの日に日に心が狭くなってゆく私に足りないのは一か月の休暇だったのか・・・
寛大な人間になるために私にも是非お休みを下さい。
揺れる床
日本でスペインでの生活などを友達に話す時、口にするのが恥ずかしくなる単語がある。「Discotecaディスコテカ」だ。
「ディスコ」の響きがやけに古めかしく、気恥ずかしさがこみ上げる。
40歳を過ぎた私ですら音楽に合わせて踊る場所というものはもう既に「ディスコ」から「クラブ」へと呼び方が変わっていた。「ディスコ」なんてバブル崩壊前の言い方だ。
しかし、スペインではそんな日本とは関係なく今も昔も「ディスコテカ」は「ディスコテカ」なのだ。
しかも、全く違う単語とか音ならいいが、「ディスコテカ」と言えば「ディスコ」のことなのだと容易に想像がついてしまうのもやっかいだ。ついついスペインに居た時の癖で「ディスコテカ」と言ってしまう自分が怖い。
しかし、スペインの「ディスコテカ」を「クラブ」と訳すのはどうにもしっくりこないので、少々気恥しいが「ディスコテカ」と言い続けさせてもらう。
日本の「クラブ」に比べスペインの「ディスコテカ」はもっと身近な存在だ。
「ディスコテカ」に一度も行ったことがないスペイン人はまずいないだろう。どんなに嫌いでも一度は通る道それがスペインにおいての「ディスコテカ」だ。たぶん日本でいうカラオケボックスのような存在だろう。
それにしても、音楽に身をゆだねて踊る行為を得意とする日本人はとても少ない。
私が見た限り日本人だけではなくアジア人全般的に不得意なのではないかと思う。音楽が聞こえてきたらそこがどこであろうと反射的に腰でリズムを取り思わずステップを踏んでしまう国の人々とはベースがまるで違うのだ。
スペインにはたくさんの中国人が暮らしているのだが、ディスコテカではあまり見かけない。そこで当時の同僚だった中国人のジンちゃんに中国人はスペインでディスコテカに行かないのか?と聞いてみた。
彼女曰く、普段はあまり行かないけど、年に一度中国人がディスコテカに集まる日があると教えてくれた。
それは、なんとクリスマスイブ!
スペイン人にとってクリスマスは家族で過ごすイベントのためその日のディスコテカにはスペイン人は来ないらしい。スペイン人の来ないクリスマスのディスコテカは中国人で一杯になるのだとか。(ジンちゃん情報なので裏は取れていませんのであしからず)
でもジンちゃんは「マドリードのディスコテカは踊れないから好きじゃない」と言っていた。人が多くて踊れないという意味だろうか?
「床があんなのじゃ踊れないわよ!」と言うジンちゃん。床の種類について文句を言うなんてもしやジンちゃんはその道のプロなのか?!と思ったがそうではない。
「私が中国で通っていたディスコテカの床は揺れるのよ!ダンスフロアの床はトランポリンみたいになっていて立っているだけで音楽に身を任せて踊っているみたいになるの!!!」
な、な、なんと!
踊れぬならば床をボヨンボヨンにして、さも踊っているかのように勘違いさせてくれる魔法の床にしてしまうとは!
ジンちゃんの説明では床が揺れに揺れるので面白くてダンスフロアに行くとみんな大笑いで上下に揺れているらしい。凄い発想だ。私ならお酒を飲んでそんな床の上にいたら速攻吐きそうだ。
「あの床ならガンガン踊れるのに~」というジンちゃん。果たしてそれは踊っていると呼べるのか?
「あの床じゃなければ踊れない」ということはほぼ全世界のディスコテカで踊れないということだぞ、ジンちゃん!
ジンちゃん、元気にしていますか?
ジンちゃんに会ったら揺れる床がなくても踊れるようになったか是非聞いてみたい。
笑いの威力
スペイン人はよくジョークを言うのだが、初めは全く理解できず苦戦した。
スペイン人は自分が面白いジョークを飛ばしたのに目の前の人がクスリともしない状況が耐えられないらしく、私がわかるまで説明してくるのだが、説明されている時点でもう笑えない。簡単なスペイン語に直してもらってジョークの全貌が見えたとしても、大抵の場合「あ~なるほど」ぐらいで大爆笑には程遠い。
これはもう語学うんぬんの問題ではないのだ。
スペイン人が好むブラックジョークには下ネタや差別、時に政治、宗教、時事など様々な要素が含まれるため、スペイン人の国民性や考え方、各地域の文化など総合的に理解する必要がある。その土地で何年か暮らさないとなかなか地元の人のジョークにはついていけないのだ。
私も10年という月日をかけてなんとか笑えるようになったが、今でもやっぱりスペインジョークは難しい。しかもこの時に一番大切なことは、ジョークを日本語に訳して理解しようとしてはいけないという点だ。
スペイン語のジョークを日本語に訳して面白かったことなど一度もない。スペイン語のジョークはスペイン語で咀嚼しなければ笑えないのだ。
したがって、ジョークを日本語に訳してと言われる事ほど辛いことはない。これはきっと逆もしかりだと思う。日本語のジョークを他の言語に訳したとして、世界の人みんなが爆笑するかは疑問である。
ピコ太郎のPPAPで有名になった時の同時通訳の橋本美穂さんレベルでないと難しいだろう。
しかしどんなに優秀な橋本さんレベルの通訳者だとしても第三者として介入した時点で純度は下がってしまう。ピコ太郎のジョークより橋本さんが意訳したジョークの方が面白くて会場が大爆笑なんてことも起こっていたが、こうなるとピコ太郎が面白いのではなくて橋本さんが面白いってことなのでは?と複雑な気持ちになってしまう。
本家より面白くなっていいのか?
ジョークは言葉を理解する必要があるが、人がコケたり失敗する映像は言語関係なく万国共通でウケがいい。
スペインで何度も何度も再放送され続けている日本のバラエティ番組があるのだが、なんとそれは「風雲たけし城」なのだ!
スペイン語のタイトルは「ウモール アマリ―ジョ」黄色いユーモア・・・
(黄色・・・差別発言に対して敏感になっている昨今の世界でこのタイトルは果たして大丈夫なのだろうか?)
「風雲たけし城」とは1986年5月から1989年4月までTBSで放送されていた視聴者参加型のアトラクションバラエティ番組のことだが、もしかしたら今どきの日本の若い子はこの番組を知らないかもしれない。素人が体を張って様々なアトラクションに挑み失敗して泥池に落ちる様は面白く、子供から大人まで幅広い層に人気の番組だった。
しかし、どんなに面白い番組だったとしても次から次へと始まる番組に押されて「風雲たけし城」なんてすっかり忘却の彼方に消えていた。
それなのに、日本から遠く離れたスペインで30年も前の日本のバラエティ番組が放送されている。
スペインでこの番組を見た時は本当に驚いた。
ドラえもんやクレヨンしんちゃんなど日本のアニメが放送されているのは知っていたが、まさか「風雲たけし城」とスペインで再会するとは夢にも思っていなかった。
少々古ぼけた画像の粗い画面の中でとても若いたけしが殿様の恰好で笑っている。一気にタイムスリップした感じで画面にくぎ付けになると画面の中の人が足を滑らせて泥の池に顔から落ちて行った。
そこで同時に起こる大爆笑。一瞬の時差もなくスペイン人も日本人も字幕も音声も関係なく笑えるこの威力。素晴らしい。笑いは世界共通。言語の壁なんて存在しないのだ!
嘘
スペイン人はたまに「どうでもいい嘘」をつく。
スペイン人の名誉のために言っておくが、スペイン人全員が嘘をつくわけではない。
ただ、スペインで暮らした10年間で私はそれはもうたくさんの「どうでもいい嘘」と出会ってきたのだ。
笑って許せるレベルから笑えないレベルまでその嘘は実に多彩だ。
レベル1 「もうすぐ着く」 「ほぼほぼ到着している」
彼らは何故だかわからないが到着時間について嘘をつく癖がある。したがって、このように言われた場合文字通りに考えてはいけない。きっとあと5分はかかると思った方がいい。
「今向かっている」も曲者だ。この場合、最悪まだ家にいるなんてこともある。実際シャワーから出てきたばかりの彼が友達からの電話に「もう向かっている」と飄々と答えているのを何度も目撃したことがある。それは嘘に値するのではないのか?と聞いてみたのだが待ち合わせの場所へ向かうプロセスに入っているのだから嘘ではないとキッパリ自信満々に断言された。
したがって「もうすぐ着く」とか「向かっている」と連絡が来たときは「待ち合わせを忘れているわけではない」と言う唯一の希望の光を胸にのんびり構えるのが正解だ。
レベル2 間違った道を教える
道を聞かれた時に本当は知らないのに「たぶん右」などと適当なことを言う人が一定数いる。「知らない」と正直に答える方が間違った道を教えるより何倍もマシなのになぜか「知らない」と答えたらかわいそうだと思うらしい。親切心が裏目に出るパターンだ。
この場合は一人の人だけではなく出会う人ごとに道を尋ねればおのずと正解の道へたどり着くことが出来る。最初に聞いた人の言葉だけを信じてどこまでも行かないように気を付けたい。
レベル3 履歴書にあきらかに能力以上のスキルを記載する
はっきりとした資格やテスト結果などの記載なく履歴書に「英語が堪能」と書かれている場合はまず疑った方がいい。彼らは躊躇なく「堪能」などと書くが「堪能」についての概念が私が知っているものとは同じではないようなのだ。
友達や知り合いにスペイン語の履歴書のチェックをしてもらった時「学校で英語を勉強したなら英語ができると記載するべきだ」と何度も言われたことがある。履歴書に書けるレベルの英語能力ではないと説明しても勉強したのに変わりはないのだから書いとけ!とアドバイスされるのだ。実際友達はあいさつ程度のフランス語も履歴書に初級レベルと書いていたし、日本語中級レベルと書かれた履歴書の主と日本語での意思の疎通が全く取れなかったこともある。
友だち曰く、「履歴書なんて書いたもん勝ち。採用さえされればどーとでもなる」らしい。本当だろうか?後から嘘がバレたら大変なことになるのではないかと心配で私には無理だ。誇大広告だと訴えられたら負けそうである。
レベル4 ミスをしたのにシラを切る
スペインの職場では「ミスした犯人をいくら探しても犯人が見つからない」という怪奇現象が度々起こる。どんなに些細なミスでも犯人は現れない。大抵はその場にいない人のせいになる。私はいつも何となく犯人の目星がつくのだが、口を挟むと途端に火の粉がこちらに降りかかるので黙ることを学んだ。
私がミスをした時、犯人探しが始まる前にあっさりと手を上げ自白したら仲の良い同僚に「そんな事自分から言わない方がいい」とたしなめられた。何でもかんでも正直に言えばいいってものではないらしい。しれっとシラを切り通す神経も時には必要なんだとか。(どんなアドバイスだ!)
レベル5 家に居たはずなのに不在票がポストに入っている
荷物が届くのを家で待ち構えているのにもかかわらず、一向にやってこない郵便物。 業を煮やしてポストを覗いてみると不在票が入っている。不在票によると「11時半と14時に届けに来たけど留守だったので郵便局に持ち帰ります」とある。
はい?ずーっと家に居ましたけど?家のチャイム壊れていませんけど?
なんすか?この見え透いた嘘は。届ける気あります?などといちいちキレていてはスペインでは暮らせない。
無の境地へ至るまでの修行だと思って精進するのみだ。
挨拶
日本食レストランで働いていた頃、日本語を習っている常連さんがいた。いつもはお昼のランチを食べにやってくる昼の常連さんなのだが、その日は珍しくお友達を連れて夜のレストランへやって来た。
予約表に名前があったのでドアの前で来店を待っていると、
「おやすみなさい!」と元気いっぱい大きな声で彼が入って来たのである。
「おやすみなさい」???
「おやすみなさい」の使い方が間違っている。
しかし、彼は自信満々の笑みを浮かべお友達に「僕はここの常連なんだ。日本語できるから日本語の挨拶したんだ」とアピールしているようなのだ。
お友達の前で恥を掻かせるわけにもいかないので間違いは訂正せずスルーしておく。
私の素敵な配慮のお陰で彼はその後も終始ご機嫌でお友達と食事を楽しんでチップも弾んでくれた。
そして店を出る時にまた
「おやすみなさい!」と満面の笑みで出て行ったのである。
今度の「おやすみなさい」は正解だ。夜も更けたこの時間の別れの挨拶として「おやすみなさい」は正しい。
彼がなぜ「おやすみなさい」と言ってお店に入って来たかというと、本当は「こんばんは」と言っているつもりなのではないかと私は推測する。なぜなら「おやすみなさい」に当たるスペイン語「ブエナス ノチェス」には「こんばんは」の意味もあるのだ。
Buenos días ブエノス ディアス = おはようございます
Buenas tardes ブエナス タルデス = こんにちは
Buenas noches ブエナス ノチェス = こんばんは、おやすみなさい
後日、彼がランチに来た時に「おやすみなさい」の使い方を説明したら「日本語難しいよ~」と照れ笑いをしていた。私も日々スペイン語の言い間違いをしている身なので彼の気持ちが痛いほどよくわかる。
挨拶の言葉と言えば、スペイン語ではもっとフランクな「Holaオラ」がある。(やあ、こんにちは)
オラは便利だ。何時だって使える。朝でも、昼でも、夜でも、子供にもお年寄りにも。人に会ったら言えばいい。
お店に入る時もオラと声を掛けてお店に入るのがスペインの常識だ。
小売店で働いていた時、イタリア人とおぼしき観光客が「オラ!」と言って店にやって来た。そこまでは至って普通の出来事だが、彼らは店を去る時にも「オラ~」と言い放ったのである。誰かが入って来たのかと思って笑顔でドアを確認するが、イタリア人たちが去って行くだけで誰も入ってくる人はいない。行き場をなくした笑顔と共に腑に落ちない気持ちになる。
一体今のは何だったのだろうか?
そしてまた別の日も店内にいたイタリア人の若者グループが「オラ~」と言って店から出て行った。
まただ。またイタリア人だ。オラと言って店から去って行くのはいつもイタリア人だ。
「オラ」の使い方が間違っている。
イタリアでは「チャオ」と言って店に入り「チャオ」と言って店を出る。
初めの「チャオ」はやぁ!とかこんにちは!で、最後の「チャオ」はバ~イだ。
彼らは「チャオ」を素直にスペイン語に訳して「オラ」と言っているようなのである。
したがって、店に入って来る時も出て行く時も「オラ」と律儀に挨拶していくのだ。 彼らに罪はない。
天下のグーグルさんの翻訳でも「Ciao」のスペイン語は「Hola」と出てくる。
スペインでも別れ際の挨拶として「チャオ」と言ったりもするので、下手にスペイン語なんかにせずにイタリア語の「チャオ」で去って行ってくれれば何の問題もないのに残念だ。
「Holaオラ」と言えば前にも書いたことがあるが、スペインの映画館で「たそがれ清兵衛」を見た時に、
門の前で「たのも~」と言っているシーンのスペイン語字幕が「Hola」だったのは衝撃的だった。
そりゃいくら何でもフランクすぎやしないかい?お前さん。
挨拶って奥が深い。
ニオイの記憶
スペイン人は香水が大好きだ。
みんなプンプン香水の香りを振りまきながら歩いている。気づかない程度につけるなんてことはしない。香水なんだから匂ってなんぼと言わんばかりに豪快に匂いを振りまくのだ。したがって、残り香だけで誰が居たかがわかったりする。
「社長がここにいたんだな」と匂いだけでわかるのはとても便利なのだが、風向きによって予想外の場所から社長が現れたりするので気が抜けない。
人気の香水は人と被ったりするが、香水が同じでもその人独自の体臭と相まってオリジナル臭となるため親しい人ならば簡単に見分けがつくのが不思議だ。したがって、香水を変えても何となく誰かわかる。
会社の更衣室に忘れられていたカーディガンの匂いをみんなで嗅いで持ち主を探し当てたこともある。麻薬探知犬もびっくりだ。
日本人に比べるとスペイン人は体臭がきつい人が多いと思うが、不思議と受け容れられる自分がいてびっくりする。スペインの気候の下で嗅ぐ体臭は驚くほどその場になじみ「ちょっと臭いな」とサラッと思う程度にとどまる。同じ匂いを日本で嗅いだらきっと「臭っ臭っ臭―い!」と顔をしかめることになるだろう。実際、私は納豆が苦手なのだが、スペインで納豆を嗅いだ時は「あれ?美味しそう!」と思うほど納豆はかぐわしい大豆の匂いを放っていたのだ。
知らない間に苦手克服ができたと喜んでしまったが、日本に帰ってきて納豆の臭いを嗅いだらやっぱり苦手な臭いに戻っていた。
不思議に思って調べてみたら、湿度が高いとニオイを強く感じるそうだ。
-マドリードは湿度が低いからあまり嫌なニオイを感じない
-日本は湿度が高いから敏感に嫌なニオイを感じてしまう
そーゆーことらしい。確かに、乾燥している冬より梅雨の時期の方が臭いにおいを感じる気がする。
人にはそれぞれ「好きな匂い」があると思う。その匂いを嗅ぐと一瞬目を閉じて深呼吸をしちゃうような匂い。いくつかあるお気に入りの匂いの中でちょっと人から変わっていると言われるのは「漂白剤」の匂いだ。苦手な人もいるらしいが、私にとってあの匂いは心地いい。
スペインでの掃除では「Lejiaレヒア」と呼ばれる漂白剤をとても頻繁に使用する。
スペインの家は基本土足なので家の床掃除は箒で掃いた後モップ掛けで仕上げるのだ。この時によくレヒアを使うのだが塩素系の漂白剤の匂いが「清潔になりました!」と脳に直接語りかけてくるようでうれしい。
漂白剤と言えば私が中学生の頃、家に帰ると母が赤くなった頬を押さえて鏡を見ていたことがあった。どうしたのか?と尋ねてみると「キッチンハイターで顔のシミが取れないかな?と思ってちょっとつけてみたんだけど、痛いわ」と驚きの回答が返ってきた。そんなことダメに決まっている。子供でも分かることではないか。
バカなのか? 私の母はバカなのか?
私が責めると「だってぇ~」と悲しい顔で誤魔化す母。まるで子供のようだ。
「キッチンハイターで布巾のシミは取れるが、顔のシミは取れない」と身をもって証明した母。
頬を赤くさせながら「でも、キッチンハイターのニオイっていい匂いよね」と笑う母につられてこっちまで笑ってしまった。
今でも母娘そろってキッチンハイターのニオイが大好きだ。